医療支援最終報告

平成23年3月11日(金)に発生した東日本大震災により、被災された皆様に対し、心よりお見舞い申し上げます。また、一日も早い生活の安全と復旧を願って止みません。

本学では、震災当日よりDMAT活動を中心とする急性期医療活動を開始し、その後も引き続き気仙沼を拠点とする地域の医療支援活動を継続してまいりました。この度、本学救急医学教室における医療支援活動の最終報告書を作成いたしましたので、ご報告いたします。なお、この報告書を含め、本学の医療支援活動の概要を、日医大医会誌第7巻Suppl.1として刊行いたしました。下記よりご覧いただけますので、併せてご参照ください。

特集号「東日本大震災日本医科大学の対応」
http://www.nms.ac.jp/jmanms/toc/0070Scon.html

 


 

東日本大震災に対する日本医科大学救急医学教室の取り組み
われわれはどう行動したのか

日本医科大学付属病院 高度救命救急センター
増野智彦、渡邊顕弘、五十嵐豊、萩原純、恩田秀賢、新井正徳、
辻井厚子、宮内雅人、布施明、川井真、横田裕行

The Relief Operations of Department of Emergency and Critical Care Medicine, Nippon Medical School
- How we acted in response to the Northern Japan Earthquake.-

Tomohiko Masuno, Akihiro Watanabe, Yutaka Igarashi, Jun Hagiwara,
Hidetaka Onda, Masatoku Arai, Atsuko Tsujii, Masato Miyauchi,
Akira Fuse, Makoto Kawai, Hiroyuki Yokota

はじめに
日本医科大学ではこれまでも、2004年新潟県中越地震、インドネシア・スマトラ島沖地震、2007年新潟県中越沖地震、2008年岩手・宮城内陸地震、2009年ミャンマー連邦サイクロン被害等をはじめとする国内外の数多くの自然災害・人的災害にいち早く医療チームを派遣してきた。今回、2011年3月11日に東北地方太平洋沖で発生したM9.0の巨大地震および津波による未曾有の災害に対しても、これまでの経験を生かした迅速な対応がなされ、震災当日よりDMATチームを派遣し急性期医療活動を行い、それに引き続き付属4病院の医師・看護師・薬剤師・事務・学生をはじめとする全学的な協力・支援体制のもと、約3ヶ月間に及ぶ被災地域の医療支援活動が行われた。また、同時に発生した福島第一原子力発電所事故に対しても臨機応変な状況判断によって、被災周辺地域より患者の後方搬送を行った。本稿では、東日本大震災に対し本学救急医学教室が行った活動を報告する。
I. 急性期医療活動
2011年3月11日14時46分、太平洋三陸沖を震源として発生した本邦観測史上最大の地震は、震源から500km以上離れた東京にもまもなく到達し、震度5強の強い揺れをもたらした。ちょうど午後の面会時間と重なり、高度救命救急センター内には患者家族が多数見舞いに訪れていた。救命救急センター内は一時騒然とした状況となったが、スタッフは冷静に対応していた。揺れが治まるのを待ってICU内全入院患者の状態ならびに人工呼吸器をはじめとする各種生命維持装置の作動に異常のないことを確認するとともに、患者家族を安全な病院前ロータリーへと誘導した。尋常でない揺れからただならぬ事態であることを察したわれわれは、高度救命救急センター内に直ちに独自の対策本部を設置し、情報収集を開始すると共に、手分けをして院内および病院周辺に多数傷病者や家屋の損壊が発生していないかの確認に奔走した。また、広域災害救急医療情報システムEmergency Medical Information System(EMIS)にアクセスし、必要項目を入力した。同時に東北被災地への災害派遣を決定し、出動スタッフに医療資器材の準備および数日分の食料等の手配を依頼した。限られた情報と混沌とした状況の中ではあったが、日頃の病院前診療(ドクターカー活動)に対する迅速な対応やこれまでの災害派遣の経験を最大限に生かし、各スタッフは自らの役割を着実に遂行し、その後3ヶ月間におよぶ災害医療活動がスタートした。
 日本医大が行った院外での急性期医療活動は、九段会館天井崩落現場への東京DMAT派遣(付属病院高度救命救急センター)、町田市の大型商業施設駐車場倒壊現場への東京DMAT派遣(多摩永山病院救命救急センター)、東北被災地への日本DMAT派遣(付属病院高度救命救急センター、千葉北総病院救命救急センター)である。付属4病院ならびに関連施設救命救急センターでは、発災直後より独自の状況判断において各地にてきわめて迅速に災害急性期医療活動を開始していた。

(1) 九段会館天井崩落現場
 15時25分、東京消防庁より九段会館天井崩落現場への東京DMAT派遣要請が入り、医師2名、救命救急士1名の計3名が東京DMATとしてドクターカーにて現場に出動した(写真1)。当日、現場では600人近くが参加した専門学校の卒業式が行われており、会場前方の天井が崩落したことにより多数の傷病者が発生していた。当院DMAT隊が到着した時には1次トリアージはすでに完了しており、同時に出場した東京医科歯科大学DMAT隊と協働し、重症患者を収容した赤・黄エリアでの2次トリアージを開始した(写真2)。赤タグ(重症患者)は計6名おり、心肺停止1名、フレイルチェスト等の多発外傷患者5名に対して全身観察ならびに必要な処置を行った後、当院を含む近隣救命救急センターへ搬送した。黄色タグ(中等傷病者)8名に対しても現場にて全身観察を行った後、重症患者に引き続いて近隣の2次救急病院へと搬送を開始した。緑タグ(軽症傷病者)は計22名おり、ケガの状態を観察した後、大型バスを使用して周辺の救急医療機関へと搬送を行い全傷病者の搬出を完了した。その後しばらくは、取り残された傷病者の可能性を考えて現場に待機をしていたが、新たな傷病者は認められず16時45分に現場を撤収して帰院した。
   
  写真1 九段会館内天井崩落現場        写真2 九段会館前トリアージエリア

(2) 東北地方被災地における日本DMAT活動
Disaster Medical Assistance Team (DMAT) とは「災害急性期(48時間以内)に活動できる機動性を持ったトレーニングを受けた医療チーム」である。1995年に発生した阪神淡路大震災での初期医療活動の遅れへの反省をもとに、災害時に一人でも多くの人を助けることを目的として2005年に日本DMATが組織された。今回の震災においては全国都道府県に所属する約340の日本DMATチーム、人数にして約1500名が広域災害救急医療情報システム (EMIS) などの情報をもとに、岩手・宮城・福島・茨城県に設置されたDMAT参集拠点に集結し、発災直後より病院支援や域内搬送、広域搬送を行った。各DMATチームは独自の車両を使用して陸路にて被災地をめざしたほか、空路、海路も利用された。関西・九州などの遠方からも多数のDMATチームが空路にて現地へ参集したが、これらは自衛隊の協力によるところが大きかった。
今回の災害による被害の特徴は①人的被害では、地震そのものによる被害に比べて津波によるところが大きく、負傷者数に比べて死者・行方不明者数がきわめて多かったことである。東日本大震災による死者不明者に対する負傷者の割合は0.3(負傷者5,929人 : 死者不明者 19,996人,9月6日時点)であるのに比べて、阪神淡路大震災では6.8(負傷者43,792人: 死者不明者 6,437人)であり、他の過去の震災においても新潟県中越地震61(負傷者4,172人: 死者不明者68人)、新潟県中越沖地震156(負傷者2,436人: 死者不明者15人)と津波被害が生じなかった震災では死者不明者に比べて負傷者が多数発生するのに対し、津波による被害が発生したインドネシア・スマトラ島沖地震では0.46(負傷者130,000人: 死者不明者 280,000人)と死者数が負傷者数を上回る傾向がみられる。このような津波災害の特徴もあり、急性期救急医療を必要とする傷病者が地震直後から発災後48時の間に病院に押しかける事態は見られなかった。②もう一つの特徴は地震・津波による被害が北海道から関東に至る広範囲に及んだことである。被害が最も大きかった岩手県や宮城県沿岸の地域では拠点となる医療機関が少ない上に、病院自体が津波による直接被害を受けたところも多く、そのため一部の医療機関に患者が集中し、医療の需給バランスの崩れたエリアが発生した。この医療ニーズのアンバランスを解消することを目的に、日本DMATでは岩手および宮城の空港や自衛隊施設にStaging Care Unit(SCU)と呼ばれる広域搬送拠点臨時医療施設を立ち上げ、被災地域内で発生した重症患者を被災地外の医療リソースが潤沢な地域へと航空搬送する広域搬送という本邦初のミッションを行い一定の成果を得た。これにはSCUで活動したDMATはもとより、自衛隊ならびに全国から集結したドクターヘリが大きな役割を果たした。特に千葉北総病院救命救急センタースタッフは全国各地から集まった複数のドクターヘリを統括し、円滑に患者搬送を行うために尽力し、広域搬送の成功に貢献した。
 千駄木付属病院の日本DMAT隊は、11日16時40分に災害用にデザインされた多目的医療支援車(写真3)にて千駄木を出発した。災害用ドクターカーはこれまでの災害派遣での経験をもとに、テレビや衛星電話、FAX、パソコン等の通信機能を備え、独立した作戦指令室として機能が可能であるとともに、室内に宿泊用簡易ベッドを展開可能であり、災害現場で自己完結的に活動が行えるよう作成された日本で唯一の車両である。
        
写真3 付属病院高度救命救急センターが誇る多目的医療支援車

発災当日には、車内のテレビやインターネット・携帯電話を活用して情報を収集しつつ東北自動車道を北上した。テレビからは次々と東北の悲惨な現状が入り始め、車外の暗闇の中でただならぬ被害が生じていることを予感した。仙台市内は予想に反して大きな被害や混乱は無く、本学救急医学教室から昨年就任したばかりの久志本成樹教授が活躍している東北大学高度救命救急センターの状況を確認した後、同日深夜に宮城県DMAT 活動拠点本部となる仙台医療センターに到着した。DMAT本部では、懸命な情報収集作業が続いていたが東北全域の停電のために情報インフラが活用できず、断片的な情報は入ってくるものの地域の被害状況を把握することは困難であった。そのため1日目は夜間の活動を行わず待機となり、翌12日早朝より自衛隊霞目駐屯地にてSCUの展開を行うことが決定された。12日早朝より付属病院DMAT隊は霞目駐屯地に移動し、本邦初の広域搬送実施に向けSCUの設営・準備を開始した(写真4,5)。日中より孤立していた地域や避難所から被災した方々が次々とヘリ搬送されてくるようになり、中にはいまだ全身濡れたまま低体温症を生じていた方や火災に伴う熱傷の方も数人おり、医療テント内で処置を行った。前述した津波被害の特徴のためか発災翌日に広域搬送対象となる傷病者は多くなく、われわれの扱った骨盤骨折の傷病者を含む数名を広域搬送した。

    
写真4 自衛隊霞目駐屯地内SCUに集結するDMAT    写真5 SCUテント内の仮設診療設備

発災3日目(3月13日)までには数多くのDMAT隊が参集していたため、千駄木付属病院チームを二つに分け、1隊は引き続き日本DMAT隊として、もう1隊はエスティマドクターカーにて被災最前線の避難所を廻り医療ニーズを探る活動を行った。日本DMAT隊は、石巻赤十字病院および同地域の情報収集を目的として石巻への派遣が決定し、13日朝より被災の予想される海岸線沿いの道路を避け、内陸を迂回して石巻へと向かった。石巻赤十字病院(写真6)に収容された傷病者は発災後三日目までの段階で、重症(赤)80人、中等症(黄)100人、軽症(緑)500~600人、死亡(黒)30~40人であり、収集した被災地状況を仙台のDMAT本部へ報告した後、そのまま病院支援活動を開始した。日本医大DMAT隊は臨時診療エリアの中等症(黄色)および軽症(緑)を担当し、ヘリコプターにて搬送されてきた傷病者のトリアージおよび診察を行った(写真7)。その後、後続のDMAT部隊が到着してきたため、疲弊しきった現地医師の負荷を軽減すべく、夜間は臨時診療エリアすべてをDMAT部隊でカバーすることとした。日本医大DMAT隊は黄色ブースを担当し20名前後の黄色タグの患者を診察し、30~40人の黄色ブースの患者管理を行った。4日目になり、急性期のDMATのニーズは低下したと判断し、医療資器材の一部を現場に寄贈し宮城DMAT本部へ報告ののちに帰院した。
  
    写真6 石巻赤十字病院内         写真7 石巻日赤トリアージテント内
 

(3) 多賀城市・七ヶ浜町医療救護活動
発災3日目(3月13日)、日本DMAT隊から分かれた別部隊は、被災最前線に急性期医療を必要とする傷病者が情報通信の混乱によって取り残されている可能性があると判断し、医師3名救命士1名にて独自に情報収集を行いながら、被災最前線内の医療機関・避難所の巡回を行った。早朝より緊急消防援助隊本部や塩釜地区消防本部にて情報収集を開始(写真8)。多賀城市及び七が浜町の被害が甚大であり医療ニーズが高いとの情報を得て、現地の避難所・医療機関・道路情報を聴取した上で巡回の計画を作成した。塩釜消防署内では、津波警報にて避難してきた70歳女性が意識障害・ショックとなり、偶然居合わせたわれわれが初期対応を行い地域拠点病院に搬送した。多賀城市(人口6万人)、七が浜町(人口2万人)は津波の直接的な被害を受けており、市街地は発災後3日目の段階でもまだ水分を多く含んだヘドロが道を覆っている状態であった。隊はまず多賀城東小学校(収容人数約400人)から巡回を開始した。発災後、いまだ医療チームは介入しておらず、体調不良者23人を診察し、うちインスリンを紛失したために高血糖を来たしていた患者を拠点病院に紹介・搬送を行った。続いて,地域内の医療機関や老人福祉施設を巡回し、急性期医療の要する患者がいないことを確認した。医療機関の多くは津波被害のため診療不能の状況に陥っており、残った医薬品や経管栄養剤にて入院治療を継続していたが残りわずかの状態となっていた。その後、多賀城文化センター(収容人数600人)、多賀城市総合体育館(収容人数50人)を巡回したが、すでに医療介入が行われており数名の診察を行ったのちに移動した。続いて天真小学校に到着(写真9)。収容人数は1000人と多く、地元医師1名により診療が開始されていたが、全体を把握しきれない状況であった。小学校体育館および3階建て校舎内の全教室が避難者で埋め尽くされており、そのすべての部屋を訪問して体調不良の方がいないかを手分けをしてチェックした。クラッシュ症候群疑い1名、要透析者4名、他数名を診察し、うち2名を透析可能病院に救急搬送し、残り2名を翌日に搬送するようアレンジした。仙台医療センターDMAT本部に多賀城市・七が浜町の状況を報告し、発災3日目であるが避難所には透析患者や高齢者などの要救護者・災害弱者が多数おり、地元医師以外の医療チームが入っておらず地元医療者の疲弊が心配されること、避難所と外部との通信手段がなく要救護者の搬送に難渋していること等を伝えた。活動中、偶然にも詳細な情報をいただいた塩釜消防本部次長は山本保博救急医学名誉教授の知人であり、また天神小学校にて単身診療を行っていた地元医師は、以前日本医科大学高度救命救急センターにて筆者と共に仕事をした医師であり、日本医大救急医学教室のネットワークの強さを再確認させられた。
  
  写真8 塩釜消防本部にて情報収集         写真9 天真小学校避難所

II. 気仙沼医療支援

日本医科大学では、東日本大震災被災地域の継続的な医療支援のため、東京都医師会・全日本病院協会の医療支援チームの一員として宮城県気仙沼市で活動を行った。活動期間は2011年3月17日から6月1日までであり、17隊にわたり67名(医師46名、看護師11名、薬剤師3名、臨床心理士1名)を派遣した。
宮城県気仙沼市は、岩手県との県境にある太平洋に面した人口7万4千の港町である。本震では震度6弱を記録し、死者985名、行方不明者435名、住宅被災棟数10672棟、被災世帯数9500世帯と甚大な被害を受けた。津波で重油タンクが倒れて火が燃え広がり、港中を焼きつくし壊滅的な被害を受けた。
医療支援チームの活動は、気仙沼市内に16か所の定点仮設診療所を開設することから開始し、徐々に30弱まで拡大した。千駄木付属病院チームは唐桑地区・中井公民館、多摩永山病院チームは同地区・唐桑公民館を担当した。唐桑町は太平洋に面した半島で(図1)、人口8841名、世帯数2252世帯であり、死者58名、行方不明54名、家屋流出550~600軒の被害を受けていた(4月5日現在)。

図1 日本医大が診療を担当した唐桑半島


千駄木付属病院チームの活動は1隊4泊5日で行った。1日目早朝に緊急車両登録をした車両で千駄木を出発し、東北自動車上を北上し気仙沼へ向かった。午後には気仙沼に到着し、前隊から引き継ぎを行った。医療対策本部、唐桑地区総合支所、中井公民館、巡回診療を行っている避難所や老人施設などを、一か所ずつ車で回り場所や仕事内容を確認した。宿泊地は、気仙沼から車で1時間半ほど離れた北上市や一関市であった。
2日目から医療支援活動に入った。6時過ぎに宿泊地を出発し、8時から気仙沼医療対策本部でミーティングを行った(写真10)。地元機関および各チーム間の情報交換、薬品の補充などを行い唐桑地区総合支所へ移動した。9時から多摩永山病院チーム・奈良県医療チームとともに唐桑地区の状況や巡回診療する施設を確認した後、10時から中井公民館で定点診療を開始した。診察室は講堂の隅に卓球台を立て掛け、その上にビニールシートをかぶせて、8畳ほどのプライベートスペースを確保した。ベッドは机を並べてその上に毛布を掛けて作成し、毛布を丸めてタオルを巻いたものを枕として使用した。医療機材は、自動血圧計、体温計、舌圧子、酒精綿、血糖簡易測定キット、外傷キット、輸液セット、常備薬などである。途中、感染症の増加に対応するため血算測定器を持ち込んだ。午後からは避難所(写真11)や老人ホームの巡回診療を行った。16時には唐桑地区総合支所へ戻り活動報告を行い、17時から気仙沼医療対策本部で全体ミーティングを1時間半ほど行い、宿泊地へと帰った。3,4日目はほぼ同様のスケジュールで診療活動を行い、5日目に帰院した。


写真10 第1陣にて地域医療対策本部統括を        写真11 避難所にて
つとめた横田教授     

全活動期間中726名の診療を行った(図2)。疾患の内訳はグラフ(図3)に示す通りであり、呼吸器疾患29%、循環器疾患17%、アレルギー疾患11%、消化器疾患8%の順に多かった。精神科疾患を主訴に訪れた患者は5%と少なかったが、震災そのものや居住環境の影響により不眠や抑うつ傾向を訴える患者は多数みられた。このため、第9陣(4月11日出発)から精神科の医師も加えたチーム構成とし、避難者をはじめ地元機関の方々のメンタルケアを開始した。第11陣(4月17日出発)からは疾患構成の変化に合わせて内科医師にも参加いただき、慢性期疾患への対応を行った。また、早期より薬剤部にも協力いただき、薬剤師同行時には支援物資として大量に届けられた薬剤の種分け・管理を行っていただいた。
多摩永山病院チームは、千駄木付属病院チームと同じ唐桑地区を担当した。3月18日から4月13日まで活動を行い、2泊3日のサイクルで計9チーム派遣した。活動内容は千駄木付属病院チームとほぼ同様だが、2台のドクターカーを人員輸送用と現場活動用として用い、効果的なローテーションを行った。748名を診察し、以後は川口市立医療センターチームに引き継いだ。



図2 千駄木付属病院診察患者数および疾患内訳

図3 気仙沼唐桑地区における診察患者の疾患別割合

  • 人員派遣:災害現場では医師、看護師、業務調整員が役割を分担することによってそれぞれの職能を最大限発揮できる。すべての職種が早期より派遣できるような院内のシステム構築が必要である。派遣スケジュールの早期作成により適切な人選・調整が可能となる。
  •  事前準備:活動マニュアルを作成し、出発前に活動内容・注意点を確認した。携行医療機器や薬品の管理が混乱した。災害種別に合わせた携行物品・薬剤の事前リスト化が望まれる。
  • 診療録・活動記録:今回は病院用災害カルテを持参し、同時に電子管理も行った。一人に複数のカルテが発生するなどカルテ管理に難渋した。他医療機関やかかりつけ医に情報が引き継がれるよう患者に診療録の複写を持たせる工夫をするなど、診療録記録および管理に関して改善が望まれる。また、今回は担当地域の疾患発生状況を地元機関にフィードバックが十分にできなかったなどの反省点が挙げられた。
  •   情報通信・情報共有:急性期にはほとんどの通信が不能となり、隊員間および千駄木本部との通信・情報共有に難渋した。多種類の通信手段、特に衛星携帯電話は必須であり、今後、衛星回線を用いたインターネット通信導入も含めて検討が望まれる。
  • 活動引き継ぎ:半日程度行動が重なるような時間をとったことは好評であった。前隊が次隊の予定をあらかじめアレンジするなど、より有効な活動が行える工夫が必要。
  • リスクマネージメント:隊員の保険・保障が問題点となったが、病院からの派遣であり原発以外では労災となる見込みであるとの回答を病院側よりいただいた。余震に対する対応や隊員のメンタルケアなど、今後より適切な対応方法の検討を要することが指摘された。移動に関しては、ドライバーの確保や車の保守点検が必要との意見が上がった。

以上の課題に対しては日本医科大学付属病院災害対策委員会にて改善を行い、来る災害に備えて病院全体で更なる準備を継続していく予定である。

III. 福島第一原子力発電所事故対応

東日本大震災および津波災害に伴い、福島第一原子力発電所において水素爆発および放射性物質の外部放出が発生し、国際原子力事象評価尺度レベル7の原子力事故が発生した。
3月11日19時に「原子力緊急事態宣言」が発表され、21時に半径3km以内の住民に避難指示が出された。翌12日、1号機水素爆発により避難指示範囲は20kmに拡大され、行政の主導のもと避難指示区域内の住民・入院患者は地域外へと移動した。さらに2~4号機の爆発も加わり15日には20~30km圏内の住民に屋内退避指示が出された。事故収束の見通しが立たないなかで地域住民は遠隔地へと避難を始め、30km圏外においてもあらゆる物資の流通が止まる事態が生じた。そのような中、3月15日に関係者より30km圏外の医療状況の窮状を伝える連絡が届いた(図4)。われわれの関連施設でもある地域の災害拠点病院を含む多くの医療機関が医療従事者の減少および医療物資の物流停滞により医療需給バランスが崩れ、病院機能が低下し深刻な状況に置かれていることを伝える内容であった。実際に3月15日の時点で同拠点病院には300名の入院患者がおり、うち40名が人工呼吸管理を要する重症患者であり、周辺医療機関の閉鎖により重症患者数はさらに増加していた。病院判断により若手職員は離院することになり、病院に留まった医師・看護師の数は平時の半分まで減少していた。原発事故がさらに拡大する可能性も考慮し、また残った職員への負担を軽減するため、われわれは入院重症患者の後方搬送が必要と判断した。翌16日、横田主任教授が関連拠点病院へ向かい、院長との協議の上同日中に搬出患者リストが作成された。この間、公的機関にも患者後方搬送協力を依頼したが、30km圏外であるために公的手段の投入は困難であった。17日より計15名の人工呼吸管理下の重症患者を当院関連8施設に後方搬送した。搬送には各関連施設の病院救急車を使用し、いわき消防および民間救急にも協力いただいた。実際に病院周辺の放射線量は高くないにもかかわらず、搬送用車両ならびにドライバーの手配にきわめて難渋した。この経験を基に、横田主任教授が中心となり日本救急医学会において「福島原発事故災害に対する後方搬送等についてのワーキンググループ」が立ち上がり、さらなる事故状況悪化に対応できるよう、民間レベルでの受け入れおよび後方搬送調整のためのシステムが構築された。
また、日本DMATでは福島原発において多数傷病者・被爆汚染者発生ならびに原発作業員に傷病者が発生した場合に備えるため、4月末よりいわき市内にてDMAT隊の待機を開始した。この一環として付属病院DMAT隊は、6月6日から12日にかけて福島県広野町および田村市において、30km圏内への住民一時立ち入りに係わる医療活動を行った。一時立ち入りを行う住民一日あたり150~250人に対して問診および線量スクリーニングを行い、熱中症や動物咬傷、釘刺創などの傷病者発生時には診察・処置を行った(写真12)。

図4 30km圏外の窮状を伝える連絡

写真12 線量スクリーニングエリア

まとめ

日本医科大学では、東日本大震災発生直後より超急性期・急性期災害医療活動をいち早く開始し、引き続き3ヶ月間に及ぶ亜急性期・慢性期の医療支援活動を被災地において行った。また、福島第一原発事故に対しても起こりうる事態を想定し、適切な判断・対応を行うことができた。日頃の積極的な病院前救急診療ならびにこれまでの災害派遣の経験が、発災直後からの迅速な出動・臨機応変な活動につながった。一方、今回の活動から新たに浮き彫りとなった課題も多く認められた。今後、本災害から学んだ教訓を生かし、来るべき災害時にさらに効果的な活動ができるよう、個人の知識・技能・判断能力の向上、また救急医学教室・大学組織としてのシステム改善につなげていきたい。
本震災対応にあたっては、救急医学教室関係者のみならず多くの診療科の医師・看護師・薬剤師・事務・学生の方々に献身的な協力をいただいた。今回の支援活動に係わったすべての皆様ならびに全学を挙げての対応を許可いただいた赫彰郎理事長、田尻孝学長・福永慶隆病院長に心より感謝申し上げます。
最後に、未曾有の震災により被災された方々に心よりお見舞いを申し上げると共に、一日も早い復興ならびに原子力発電所事故の早期収束を願わざるを得ない。

 

                                                     東関東大震災派遣メンバー

派遣期間

氏 名

所属

九段会館天井崩落現場

2011/3/11()

恩田 秀賢

救急医学

 

大嶽 康介

救急医学

 

岡田 知巳

東京消防庁委託研修生

宮城県における日本DMAT活動

2011/3/11()-3/14()

増野 智彦

救急医学

 

渡邊 顕弘

救急医学

 

小野寺 修一

救急医学(川口市立医療センター)

 

周東 佑樹

研修医

 

安藤 文彦

研修医

 

芝田 匡史 

研修医

 

三橋 正典

東京消防庁委託研修生

 

岡田 知巳

東京消防庁委託研修生

気仙沼医療支援(付属病院)

1

横田 裕行

救急医学

2011/3/17()-3/21()

布施 明

救急医学

 

辻井 厚子

救急医学

 

恩田 秀賢

救急医学

 

若菜 繁

東京消防庁委託研修生

 

三橋 正典

東京消防庁委託研修生

第2陣

畝本 恭子

救急医学(武蔵小杉)

2011/3/21()-3/24()

宮内 雅人

救急医学

 

藤木 悠

研修医

 

岡田 知己

東京消防庁委託研修生

第3陣

白石 振一郎

救急医学

2011/3/24()-3/27()

塩村 玲子

研修医

4

金 史英

救急医学

2011/3/27()-3/31()

竹之下 尚子

救急医学

 

加藤 あゆみ

薬剤部

 

田邊 智英

医学部6

5

小野寺 修一

救急医学(川口市立医療センター)

2011/3/30()-4/3()

石川 若菜

救急医学(多摩永山)

 

金子 貴久

研修医

 

木野 毅彦

看護部

6

松園 幸雅

救急医学(荒尾市民病院)

2011/4/2()-4/6()

片野 雄大

研修医

 

西川 慈人

医学部6

7

渡邊 顕弘

救急医学

2011/4/5()-4/9()

山口 昌紘

研修医

 

高木 和也

東京消防庁委託研修生

 

吉田 羽奈

薬剤部

8

川井 真

救急医学

2011/4/8()-4/12()

田中 俊尚

救急医学

 

須﨑 真

総合診療科

 

稲田 浩美

看護部

9

林 励治

救急医学

2011/4/11()-4/15()

五十嵐 豊

救急医学

 

河嶌 讓

精神科

 

森 洵子

薬剤部

10

齋藤 伸行

救急医学(千葉北総)

2011/4/14()-4/18()

上田 太一朗

研修医(千葉北総)

 

江渕 慧悟

研修医(千葉北総)

 

河嶌 讓

精神科

 

渡辺 光子

看護部(千葉北総)

 

山田 裕子

看護部(千葉北総)

11

雨森 俊介

救急医学

2011/4/17()-4/21()

新福 摩弓

第3内科

 

河嶌 讓

精神科

 

佐々木 健太郎

看護部

12

高野 仁司

1内科

2011/4/20()-4/24()

池田 司

救急医学

 

朝山 健太郎

精神科

 

古澤 寿衣

看護部

13

遠藤 広史

救急医学(武蔵小杉)

2011/4/23()-4/27()

桑原 広輔

研修医(武蔵小杉)

 

川島 義高

臨床心理士

 

門馬 治

看護部(武蔵小杉)

第14

高木 元

1内科

2011/4/26()-4/30()

富永 直樹

研修医

 

関根 瑞保

精神科

 

山﨑 直人

看護部

第15

玉井 勇人

第3内科

2011/5/11()-5/16()

林 孝典

研修医

 

伊与 恭子

看護部

第16

太良 修平

1内科

2011/5/15()-5/20()

山本 良也

1内科

 

草谷 和代

看護部

第17

太田 好紀

救急医学

2011/5/23()-5/28()

宮吉 孝明

精神科

 

鈴木 友真

研修医

 

佐藤 トキ子

看護部

第18

石井 浩統

救急医学

2011/5/27()-6/1()

瀧口 徹

救急医学

 

背戸 陽子

看護部

気仙沼医療支援(多摩永山病院)

1

二宮 宣文

救急医学

2011/3/18()-3/21()

苛原 隆之

救急医学

 

前田 省悟

看護部

 

鈴木 健介

救急救命士

2

久野 将宗

救急医学

2011/3/21()-3/24()

金子 純也

救急医学

 

小林 正宜

看護部

 

木下 貴子

看護部

3

苛原 隆之

救急医学

2011/3/24()-3/27()

木村 浩子

看護部

 

高山 佑輔

救急救命士

4

久野 将宗

救急医学

2011/3/27()-3/30()

舘澤 大樹

看護部

 

田中 芳江

救急救命士

5

小柳 正雄

救急医学

2011/3/30()-4/2()

山本 裕之

看護部

 

鈴木 健介

救急救命士

6

二宮 宣文

救急医学

2011/4/2()-4/5()

桑本 健太郎

救急医学

 

新行 内賢

看護師

7

石川 若菜

救急医学

2011/4/5()-4/8()

武見 和基

看護部

 

喜熨斗 智也

救急救命士

8

金子 純也

救急医学

2011/4/8()-4/11()

濱田 靖子

看護部

 

鈴木 健介

救急救命士

 

曽根 悦子

救急救命士

9

佐々木 朝子

内科

2011/4/11()-4/13()

島影 貴史

看護部

 

鈴木 健介

救急救命士

 

稲村 嘉昭

救急救命士

福島第一原子力発電所事故対応(いわき後方搬送)

2011/3/17()-3/21()

林 励治

救急医学

 

白石 振一郎

救急医学

 

小野寺 修一

救急医学(川口市立医療センター)

 

新井 正徳

救急医学

 

諸江 雄太

救急医学(多摩永山)

 

小笠原 智子

救急医学(災害医療センター)

 

田邉 晴山

救急医学(災害医療センター)

 

望月 徹

救急医学(武蔵小杉)

 

牧 真彦

救急医学(武蔵小杉)

 

尾本 健一郎

救急医学

 

直江 康孝

救急医学(川口市立医療センター)

 

松本 学

救急医学

 

増野 智彦

救急医学

福島第一原子力発電所事故対応(いわき待機DMAT

2011/6/6()-6/12()

増野 智彦

救急医学

 

田中 俊尚

救急医学

 

布施 明

救急医学

 

萩原 純

救急医学

 

榊 由里

看護部

 

加藤 あゆみ

薬剤部

 

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